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治田寺の歴史

 

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治田寺の縁起

  天平年間、当寺建立の場所に、霊木があることを聖武天皇が聞こしめし、行基菩薩に同場所へ仏寺を造営するよう、御宣下なさいました。
 行基菩薩は、この場所こそ霊地であると言上され、天平十六年二月八日勅許を得て、行基菩薩はその霊木にみずから斧をふるい、当寺を建立され、治田と号されました。
 当寺は椋橋荘の名刹として、同荘総氏寺となりました。
 当寺、阿弥陀堂にある阿弥陀如来坐像は藤原時代後期の作で、定朝様式をよくとりいれた寄せ木造りでありますが、兵庫県重要文化財に指定され、当時と京都・奈良との密接なつながりを物語るものといえましょう。鎌倉時代初め、右大臣源実朝公は不思議の霊益を蒙られ篤きご信仰を寄せられて七十余町歩の田地を寄進され、伽藍を造営されました。
 当寺では伽藍を増築し、時の里人の口の端に仏閣の甍青苔を重ねて露を含み僧坊相連なり、人煙自ら厚くなると言われるほどの古刹でした。二位禅尼政子の遺言により、四代将軍藤原頼経が当寺へ頼朝公・実朝公・政子三霊の遺骨を瑠璃の中へ入れられ、本尊薬師如来坐像の手にすえられたといいます。
 その後、うち続く戦乱のため、わずかに法燈を守るのみでしたが、治田寺は元禄年中、智教上人により再興され、文化年間に如実大和尚により再建されました。その後、昭和四十年三月に落慶されたのが現在の本堂です。

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左面:本尊 薬師如来、阿弥陀如来、十一面観世音、金毘羅大権現、醫王山治田寺
右面:天平十二年開基 椋橋荘総氏寺

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戸ノ内村と治田寺の歴史

 大昔、戸ノ内の村も園田も海の中でした。猪名川が運ぶ土砂で陸地ができるにつれ、紀元前二、三世紀ごろから人が住み始めました。
 戸ノ内は人々が住み始めた大昔から文化が栄え、尼崎市域に住む人々に土器を焼いて与える大切な役割を果たしていたようです。
 豊中市庄本と戸ノ内の間に架けられた橋を「椋(くら)橋」といい、戸ノ内村のことを「椋橋」といっています。
 崇峻天皇の時代、猪名、川西の地方に帰化氏族の豪族が栄えていました。猪名の河尻にあたる庄本、戸ノ内周辺は、新羅、百済などの船が行き交う重要な場所でした。
 盛時、椋橋荘は、西に総氏寺と伝えられる治田寺、東には新福寺、西大寺といらかを並べ、その権勢を誇っていました。
 治田寺は天平十六年行基によって建立されたと伝えられています。境内には「天平十二年開基、椋橋荘惣氏寺」という石碑があります。
 鎌倉時代に入り、源実朝公が治田寺の縁起を聞き、七十余町の田畑を治田寺に寄進しました。治田寺では伽藍を増築し、寺名を聖林寺と改名しました。
 その後、北条政子の遺言により、頼朝、実朝、政子三霊の遺骨は瑠璃の壺の中へ入れられ、本尊薬師如来坐像の手にすえられたといいます。その関係か、治田寺の寺紋は源氏の家紋と同じ「ささりんどう」になっています。
 戦国時代、治田寺は池田氏の出城「椋橋城」として登場します。
 椋橋の地は猪名川、神崎川の河口を押さえ、京都、河内・大和と通じる道を扼すことのできる位置を占めるため、国の政治が乱れたり、事変が起こる度に、椋橋城の制圧をめぐって戦禍を受けることとなりました。
 戦国時代二百年の間、廃寺同然となっていた治田寺は、元禄年中智教上人により再興され、文化年間に如実大和尚により再建されました。そのときの建物の傷みが激しいため、昭和四十年三月に現在の堂宇が落慶されました。

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弘法大師 摂州八十八箇所 第四十番とある

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鯉橋と行基様

 この話は、今から約千二百七十年ほど前、奈良に都がおかれていたころのことです。
 行基さまは諸国を巡錫され、困った人を救い、池を掘り、道をつくり、橋をかけたりしたため 人々から菩薩さまとあがめられていました。
 ある時治田寺へ参籠するため、対岸の庄本まで来られたとき、折り悪しく洪水のため猪名川にかけられていた?水橋が流されてしまいました。大あわての治田寺お坊さま方は、舟筏を組んでお迎えしようとしましたが、やはり流されてしまいました。行基さまもお坊さま方も、村人たちも途方にくれ、つくづく困ってしまいました。
 するとどうでしょう、川のかなたから鯉が群れをなして集まり、その銀鱗で川の色が変わるほどでした。行基さまは得々として鯉の背に乗って渡り、無事治田寺に参籠することができました。
 村人たちは その光景に驚き、鯉をあがめ、それ以後、川の上下十八丁、鯉を殺生したり食べなくなった、ということです。
 (治田寺 古文書)

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